和菓子の起源を探る:木の実から米菓まで、日本の菓子文化の歩み

橘のロゴ画像

和菓子は大きく分けると、『生菓子・干菓子・半生菓子』の3つに分類され、おかき・あられ・せんべいなどの米菓は干菓子に位置づけられます。

四季の味を表現し、その土地特有の産物を用いて様々な形を模る和菓子は、日本の歴史と文化が生み出した芸術作品とも言えるでしょう。職人たちが意匠を凝らした美しさの背景には、時代を超えて受け継がれてきた深い精神性があります。

現在でもお茶菓子として欠かすことができない和菓子ですが、そのルーツは遥か縄文時代の『木の実』や『果実』にまで遡ります。では、なぜ日本だけが世界でも稀に見る米菓文化を発達させることができたのでしょうか?

旧石器時代から現代まで、お菓子の神様【田道間守】の伝説なども交えながら、日本独自の菓子文化の歩みを探ってみたいと思います。

お菓子のルーツは木の実や果実

古代(旧石器時代~弥生時代頃)の人々は狩猟や採集が食糧確保の主な方法であったため、安定的に食糧を確保するのが大変でしたが、木の実や果物は比較的に手に入れやすく保存のできる食糧であったため貴重な食べものだったと推測できます。

菓子という字も、もともとは「果子」と表されていたようです。“ 菓 ” という字の元は “ 果 ” であり、木の上に実がなっている様子を表した象形文字になります。

「菓」という文字は、今ではお菓子というイメージが色濃いですが、果物(くだもの)の意味も持っています。昔の菓子は、今の菓子という概念とは違い、木の実や果物が中心的な位置づけでした。木の実は「古能美」、果物は「久多毛野」といった漢字で表されている資料もあります。

時代とともに変化する菓子文化

縄文土器は、約1万2000年ほど前に木の実を煮て食べるためや貯蔵用に考え出されたと言われています。縄文時代を代表する三内丸山遺跡(青森県)では、発掘によって土器に加えて、クリやマメなどが栽培されていたことがわかっています。

弥生時代には大陸から九州地方に稲作(いなさく)が伝わり、次第に日本各地へと伝播していきます。稲作については、弥生時代の遺跡として板付遺跡(福岡県)、唐子・鍵遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)からも水田の跡が見つかっています。収穫した稲の穂は、湿気や動物から守るために高床式倉庫にたくわえられました。

木の実や米をどのように食べていたかは興味の尽きないところですが、お菓子が料理のように加工された姿として登場するのは、奈良時代に中国から伝わった唐菓子と言われています。

奈良から平安時代に中国から伝わった唐菓子(からくだもの)に加え、鎌倉時代に同じく中国から伝わった点心(てんしん)、安土桃山時代にポルトガル・スペインからきた宣教師によって伝えられた南蛮菓子などの影響を受け菓子文化が育まれてきました。

その後、江戸時代に入り後半になると江戸の町での食文化(料理)の繁栄とともに、菓子文化も花開き、将軍家御用達品などの職人の手で多彩な加工を施した和菓子が生まれました。

和菓子のイメージ画像

なぜ日本で米菓文化が発達したのか?

日本の米菓文化が独特の発展を遂げた背景には、稲作と神事が密接に結びついた精神文化があります。

古来より日本では、収穫した新米を神棚にお供えし、そのお下がりを大切に頂戴する習慣がありました。神聖な米を粗末にできないため、長期保存できる米菓として加工する技術が発達したのです。

特に正月の鏡餅は、年神様へのお供え物として重要な意味を持ちます。鏡開き後、硬くなった餅を手や木槌で「欠く(かく)」ことから「欠き餅(かきもち)」→「おかき」の語源が生まれ、日本独自の米菓文化の象徴となりました。

ひな祭りのひなあられや端午の節句の柏餅など、年中行事と米菓は切り離せない関係にあり、単なる食べ物を超えた文化的意味を持つようになったのです。

おかきとあられの画像

お菓子の神様『田道間守』と橘の伝説

お菓子のルーツを語る上では忘れてはいけないが、お菓子の神様と言われる田道間守(たじまもり)。

当時の天皇(垂仁天皇)の命を受け、不老不死の薬を求めて旅に出た際に持ち帰ったとされる『非時香果(ときじくのかくのこのみ)』が、橘(たちばな)の実であったという話は有名であり、この『橘の実』を菓子のルーツとする説があります。

この話は、日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』に記されています。ここで登場する垂仁天皇は日本の第11代の天皇で時代は古墳時代。全長約227メートルの前方後円墳である垂仁陵古墳(宝来山古墳)は奈良県の観光スポットのひとつとしても紹介されています。

日本には、たくさんの和菓子屋があり、暖簾や看板などに使われている屋号やロゴのなかに、この橘(たちばな)の絵が使われている光景が多く見受けられます。これはお菓子の起源を大切にする心や菓祖「田道間守」への敬意を意味しています。

田道間守を祀る中嶋神社(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市にある中嶋神社はこの田道間守が祀られており、今でも菓子業界に関わる人々が多く参拝しています。もちろん、私も何度か訪れたことがあります。

もし、ご興味があれば豊岡に行く際にはぶらりと立ち寄ってみてください。近くには城崎温泉や城崎マリンワールドなどもあり、冬には名物の蟹料理が味わえる料理旅館などもたくさんあります。

志賀直哉の短編小説『城崎にて』の内容は、生きているということを題材にしたものでした。お菓子は生きるとために必要だった食べもの。なんとなく繋がりがあるような場所で豊岡は不思議な場所です。

◎きのさき温泉観光協会公式サイト
TEL:0796-32-3663
PAGE:志賀直哉と文学のまち
URL:https://kinosaki-spa.gr.jp/about/history/literarytown/

◎中嶋神社
〒668-0823 兵庫県豊岡市三宅1
URL:http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6322083.html

右近の橘、左近の桜(京都御所)

「右近の橘、左近の桜(Tachibana on the right side Sakura on the left side)」というは、この故事に由来しているとも言われています。なお、右近の橘については、先述の通り、非時香果(ときじくのかくのこのみ)と呼ばれ、寒暖の差に強く常に葉を生い茂る姿から、繁栄を象徴する縁起の良い樹として不老長寿を願う意味が込められています。

雛祭りの際にも橘と桜を飾るのもそういったところにちなんでいるようです。平安時代の宮中の様子を習った伝統的な行事として3月3日のひな祭りの日には、雛人形やお供え物に加え、花かざりとして橘と桜を飾ります。習わしとしては向かって左に橘を、右側には桜を飾るのが一般的。 これは、京都御所の紫宸殿(ししんでん)にちなんでいると言われています。

京都御所にある右近の橘(イメージ画像)

まとめ

お菓子は、古代の人々には生きるために欠かすことのできない大切な食糧でした。木の実や果実から始まった菓子文化は、弥生時代の稲作伝来とともに大きく変化し、現在私たちが愛するおかき・あられ・せんべいへと発展してきました。

特に注目すべきは、日本が世界でも珍しい米菓文化を築き上げたことです。神事との深い結びつきから生まれた「神に捧げる米を粗末にしない」という精神が、保存技術の向上と美味しさの追求を促し、独特の菓子文化を育んできました。

鏡餅から生まれた「おかき」の語源に象徴されるように、日本の米菓は単なる食べ物を超えた文化的意味を持っています。

田道間守が持ち帰った橘の伝説や、現代まで続く中嶋神社への信仰は、菓子に込められた日本人の精神性を物語っています。右近の橘、左近の桜という言葉に表れるように、菓子は日本の美意識や季節感とも深く結びついているのです。

普段、何気なく口にしているおかき・あられ・せんべいですが、その一粒一粒には数千年にわたって受け継がれてきた日本人の知恵と心が込められています。ぜひ、一枚また一粒ずつをじっくりと味わい、遠い祖先たちが築いてきた豊かな菓子文化に思いを馳せていただければと思います。

せんべいのイメージ写真

【参考文献】
・宮崎正勝「知っておきたい「食」の日本史」角川ソフィア文庫
・渡辺実「日本食生活史」吉川弘文館

※歴史や起源・由来には諸説があります。
※写真やイラストはイメージです。