煎餅の起源は弘法大師『空海』が日本に伝えた説が有力?|The Origin of the Japanese Crackers

せんべいのイメージ写真

煎餅(せんべい)のルーツは諸説があり興味が尽きない分野です。

最も有力な説は、弘法大師である空海(くうかい)が、平安時代に中国(唐)から日本に煎餅の作り方を伝えたとされる話。

当時の煎餅は、今の煎餅のイメージとは違ったものでした。時代や地域でそれぞれの特色を活かしながら独自に変化を遂げてきたお菓子。

江戸時代(元禄年間)の資料には、『煎餅師』という職業が記録に残されています。

今回は、できるだけ煎餅の歴史を時代背景とともに私なりにわかりやすくまとめてみました。

煎餅は平安時代に空海が日本に伝えた説が有力?
弘法大師空海のイメージ写真

遣唐使とともに唐に渡り仏教の新しい教えを日本に伝えた空海(774~835)が、延歴二十三年(804)に日本に煎餅を伝えた説が有名です。当時の修行僧時代に招かれた宮廷での “ もてなし料理 ” のなかに亀甲型の煎餅という食べ物がありました。それが大変美味しかったため、空海は作り方を習い日本に戻って伝えることになります。

その教えを受けたと言われるのが、山城国葛野郡(現在の京都)に住む和三郎という人物です。葛の根と米粉を水で溶いて果実の糖液を混ぜて焼き上げた『亀の子煎餅』を嵯峨天皇(第52代天皇:786~842)に献上したとされる逸話が、日本で最初の煎餅の起源と言われています。その果実が何であったか、私にはとても興味深いところです。

そして、嵯峨天皇から『嵯峨御菓子御用』の命を受けた和三郎は、名を「亀屋和泉藤原政重」と称して製法を広め、様々な工夫が施されながら多種多様な煎餅が各地で作られるようなりました。

ここで登場した嵯峨天皇は、桓武天皇(第50代天皇:737~806)の第2皇子です。桓武天皇と言えば、784(延暦3)に都を平城京から長岡京(京都府)に移し、次いで794年に平安京への遷都を行った人物。また、弘法大師と呼ばれる空海は日本に真言宗(しんごんしゅう)を伝え、今の和歌山県伊都郡高野町高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた人物です。

参考 都電の見える図書館 第95号文京区立図書館

古い書物に登場する煎餅

煎餅という文字は古い書物のなかにも度々登場します。例えば、天平年間の正倉院文書にある『但馬国正税帖(737)』や『淡路国正税帖(738)』に煎餅と記述されていますが、「せんべい」ではなくて「いりひもち」と読むようです。

また、承平四年(934)頃に日本で最初に編纂された漢和事典『和名類聚抄(わめいるいじゅしょう)』があります。ここで登場する煎餅は、小麦粉と油を使い熱を加えて作ったものとされています。

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。 承平年間(931年 – 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。 略称は和名抄(わみょうしょう)。

出典元:ウキペディア

いずれにしても製法をはじめ、原料や形、大きさ、硬さなどを詳細に記した資料はなく、詳しいことはわかっていないため、味を含めて想像の域になります。草加せんべいのような煎餅が登場するのは江戸時代のため、当時の煎餅は現代の煎餅とはだいぶんと違ったものでした。

参考 和名類聚抄(20巻)国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代の人倫訓蒙図彙に見る煎餅

1690年(元禄3年)の『人倫訓蒙図彙( じんりんきんもうずい)』には、お米で作るおせんべいを描いた図を見ることができます。団扇(うちわ)で扇ぎながら箸(はし)でせんべいを挟んで焼いている風景が印象的です。せんべいを描いた日本最古の図とされる貴重な資料です。この絵のタイトルに『煎餅師(せんべいし)』という職業を表す記述が見られます。

人倫訓蒙図彙のイメージ画像

※参考資料:人倫訓蒙図彙のイメージ画像

元禄年間は、京都や大阪を中心とする上方で、経済力をつけた町人が武士に変わって文化の中心を担うほど賑わっていた時代です。元禄文化を代表的する人物は、「奥の細道」で有名な松尾芭蕉や「浮世草子」を書いた井原西鶴などです。

途中、財政の立て直しのための徳川吉宗(第八代将軍)による享保の改革もありましたが、徳川家斉(第11代将軍)の時代となる化政期(文化・文政)には、菓子文化の更なる発展とともに多くの御菓子が存在していた様子が資料から垣間見ることができます。

化政文化の代表的な人物は、美人画を描いた喜多川歌麿や風景画を描いた葛飾北斎、歌川広重が有名です。また、諸藩が武士に学問や武道を教える藩校、庶民の間では読み書きや算盤(そろばん)を学ぶ寺子屋が開かれていました。

江戸時代の中期(1712)に編纂された百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』においては、小麦粉を練って焼いて作る煎餅について書かれています。

時代背景から推測すると、江戸時代の中頃から後期には小麦粉の煎餅とお米の煎餅がすでに共存していたことになります。お米で作ったせんべいは、当初は塩を混ぜ込んだだけのものであったことから「塩せんべい」と呼ばれていましたが、発酵調味料である醤油が味付けとして使われるようになってからは「醤油せんべい」という呼び名が主流になりました。

参考 人倫訓蒙図彙(7巻)国立国会図書館デジタルコレクション

煎餅の語源となる逸話(千利休と幸兵衛)

茶の湯の風景

一方、創作とされているお話をひとつ。天正年間(1573~1592)に茶の世界で活躍した千利休に使える幸兵衛という人物が、茶席の際に、小麦粉に砂糖を混ぜて焼いた御菓子を出したところ、人気を博しました。のちに師匠である千利休の一文字をもらい「千幸兵衛」と呼ばれた人物が作ったことから、その御菓子を「千幸平衛(せんこうべえ)」と呼んでいたものが、いつしか「せんべい」と呼ばれるようになったという面白いお話です。



煎餅の定義と種類は?『草加せんべい』が代表的?

草加せんべいの写真

煎餅というと関東の方は『草加せんべい』を思い浮かべる人が多いと思いますが、関西では小麦粉を原料に卵と砂糖を混ぜた生地を鉄板で焼き上げた『瓦せんべい』を思い浮かべる人もいます。瓦せんべいとは、その字の通り、屋根瓦の形に焼き上げたおせんべいです。

また、愛知県の知多半島周辺には、原料の澱粉(でんぷん)に海老などの海産物を混ぜて油で揚げたり、鉄板で焼いたりする『えびせんべい』を作るお店がたくさんあります。この辺りは、新鮮な海産物が多く獲れるということもあり、このあたりの地域の人たちはえびせんべいを思い浮かべることが多いようです。

職業柄、「おせんべいとは何か?」とよく聞かれるのですが、原料は大きく分けて『お米・小麦粉・澱粉』の三種類があると説明をさせていただいています。一般的な定義では穀物を原料にしたものが煎餅であると言われていますが、今では原料を問わず平たく焼いたものを煎餅と呼んだりしています。

東北の南部煎餅、関東の草加せんべい、東海のえびせんべい、関西の小麦煎餅に加え、炭酸せんべい、魚介類を薄く焼き上げた海産物の姿せんべいなど、今では数え切れないほどたくさんの種類があります。それぞれ特産物を取り入れているので、地域の特徴をとてもよく表している煎餅が多いのです。

煎餅の原型は歴史の書物からみて大陸から伝わってきたのは間違いないと思われますが、それを日本人の好みにあったお菓子に変化させてきたのは言うまでもありません。ひとつの名称で、ここまで豊富な種類があるお菓子はとても貴重で今でも人気があるという証拠でもあります。

草加せんべいの写真草加せんべいの歴史と調味料(塩・味噌・醤油)との関係とは?| Soka Senbei

まとめ:茶の湯の文化とともに煎餅も発展

今の煎餅の姿に至るまでには多くの変遷を経て変わってきたと思われます。原料である素材は小麦粉が先であったと言われていますが、お米も随分と昔から利用されてきた歴史があります。

江戸時代の元禄年間は経済力をつけた町民が文化の担い手となり、その後の化政期(文化・文政)には料理や菓子に関する本が数多く出版されていることから食文化がかなり確立されていたと推測できます。

江戸の後期には、大名でもある松平不昧(まつだいらふまい)や井伊直弼(いいなおすけ)などの茶人が “茶の湯” の文化と発展に貢献しています。井伊直弼の著書『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』の巻頭にある「一期一会(いちごいちえ)」は「独座観念」という言葉とともに有名な四字熟語としても伝えられています。

きっと当時の煎餅には様々な意匠を凝らした “ 技物わざもの) ” がたくさん生まれ、将軍家への献上品や茶菓子にも利用されていたのかもしれません。

ぜひ、お好みの煎餅で、趣のある楽しいおやつの時間を過ごしていただければ嬉しいばかりです。最後までご覧いただきありがとうございました。当記事が何かのお役に立てれば幸いです。


【参考文献】
渡辺実「日本食生活史」吉川弘文館、原田信男「江戸の料理史」中公新書、原田信男「和食の歴史」思文閣出版、清水桂一「たべもの語源辞典」東京堂出版、大久保洋子「江戸の食空間」講談社学術文庫、青木直巳「幕末単身赴任 下級武士の食日記」筑摩書房、宮崎正勝「知っておきたい「食」の日本史」角川ソフィア文庫、石毛直道「食卓の文化誌」岩波書店、新編 新しい社会 東京書籍

※歴史や起源・由来には諸説があります。
※写真やイラストはイメージです。